黒部・宇奈月温泉にかけた情熱

宇奈月温泉100周年事業実行委員会  実行委員長 河田稔

宇奈月温泉は開湯100周年を迎えました。全国の温泉地には1000年を超える歴史を持ったところもあります。それらに比べ、100年は決して長い方ではありません。
 しかし、字奈月温泉は、その成り立ちには他にはない特徴があります。  その一つは電源開発と一体となって開湯が進められたということです。
 アメリカで活躍していた高岡生まれの科学者、高峰譲吉博士の日米合弁の壮大な構想がきっかけでした。タカジアスターゼの発明などで知られる高峰博士は、当時まだ日本では製造されていなかったアルミニウムを高岡・伏木でつくろうとしました。アルミ製造には大量の電力が必要であり、それを黒部川の電源開発でまかなおうとしたのです。
 そのころの字奈月は、生活をする人がいない無住の台地でした。そこを拠点に東洋アルミナムという会社をつくり開発計画を進めましたが、単に水力発電だけではありません。北陸線黒部駅(現あいの風黒部駅)から宇奈月まで電車を走らせ、新たな温泉郷・宇奈月温泉の造成を目指しました。
 米国企業の撤退、高峰博士の死去によってアルミ製造構想は頓挫しますが、水力発電や新温泉開湯計画は大阪資本の日本電力(関西電力の前身)に引き継がれました。電源開発によって字奈月温泉が誕生したのです。
 ただ宇奈月温泉のルーツはもう一つありました。今の字奈月から2キロ下流の内山村長畠にあり、1917年(大正6年)からしばらく営業していた愛本温泉です。宇奈月温泉は7キロ上流の黒薙温泉から引湯した温泉郷であるのも特徴ですが、その発想は愛本温泉を受け継いだものでした。黒薙から樋を通してお湯を引いて一時はにぎわっていましたが、揚が冷めたりし営業不振となっていたのを電力会社が買収し、宇奈月の地で新湯を開発することにしたのです。しかし熱い源泉を冷めないうちに字奈月まで届けられるのかが難問でしたが、土木技師山田胖の考案した引湯管で熱い湯が送られてきました。それが字奈月温泉開湯の瞬間でした。1923年(大正12年)11月のことでした。
 字奈月につくられた温泉郷は、単に湯治を楽しむだけでなく、旅館、別荘、商庖のみならずスキー場、テニスコート、プール、公園、遊園地などを備えた温泉地を目指しました。当時としては珍しい温泉郷としてスタートしたことも特徴の一つです。
 日本ーといわれるV字峡の黒部峡谷での開発調査や工事は想像を絶するような努力があったことでしょう。
 高峰構想、それを進めた山田俳らの熱意、引き継いだ日本電力の努力がなかったら字奈月温泉は誕生していませんでした。その苦労やチャレンジ精神、情熱から学ぶことが多々あります。
 黒部峡谷という景勝地にできた温泉郷ですが、この100年、順風満帆ではありませんでした。戦争や戦後の混乱期、あるいは景気動向、観光客のニーズの多様化など時代の波に影響されながら推移し、大火や災害という荒波をも乗りこえてきました。
 100周年を記念しいろんな事業を企画していますが、その歴史を語り継ぎ、次代につないでいくことが大事だと思っています。

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